そのままそっちに振り切っちゃうんじゃないかっていう危うさは僕自身も認識してます
今おっしゃってるその感覚ってぴったり一緒かは分からないんですけど、何人かその感覚を知ってる友達がいて、で僕もそれに似た感覚を実は体験したことがあって。でも僕の場合は能動的にそれを起こしたわけではなくて。今されてることって自分の意思で能動的に人と話して、写真撮って、そうしてるうちにじわっとなんかが躍り始めて、で実際にそれが形として自分のところに跳ね返ってきたときに言いようのないぶわーってしたものが身体に染みてく感じとか、そういうことですよね。で僕の場合はそれが病気とか、そういう命に直面することが何度かあって、それで感覚を覚えてるといいますか。
僕はNPOで保育園だったり、子供のアートスクールだったりを立ち上げて10年目になるんですけど、ベースは〇〇県の山の中で、園舎の周りを菜園みたいな感じにして、色んな自然が循環するような暮らし方を子供達としてるんですね。でもやってみてから何回かこれまで身体を壊してて、でショック状態みたいになって急に運ばれて、意識もなくなっちゃって、ICUに1週間位入ったりもしてたんですね。で退院してまだふらふらって頭、思考が回ってないような状態で、ぼーってしながら園に行ったんですよ。で行ったときに、ちょうど1歳の子たちが園の園庭の所で人参の間引き菜を採ったり、レモングラスの葉っぱがわーってなるのに感動してわさわさってそれをこう煽り立てたり、先生たちが子どもたちの後ろをついてまわったり、みたいなその光景がね、なんかもう全部がとにかくね、すごいミラクルに見えてきちゃって。うまく言えないんだけど、レモングラスも人参もそれを採ろうとしてる子供も、それを追いかけ回してる先生も、一挙手一投足というか、動いてないものも含めてもう全部が身体にぶわーって染みてくるっていうか、全部がもうなんか、いきいきしてるというかミラクルみたいな感じやったんです。
でもその感覚は完全に受動的に得た感じで、決して能動的に得たわけではなかったんですよね。ちょうどこの3ヶ月間とかもその感覚が戻ってきてて、今すごい色んなことが染み渡ってくるんですよ。園とか、社員の人とかもみんなすっごいぶわーって急成長していってて、それがまた全部染みてくるんです。そうなってくると、いまいち社員の人たちと会話が噛み合わないときもあるんですよ。噛み合わないってのは悪い意味じゃないんですけど、今、組織がぶわーって急成長しているように見えていて、で、もうそれがすごく力強いし、美しいし、ただただ染みてくる。だから職員会議とかのミーティングでも、一個一個の場面で僕が言いたくなることなんてもうないんですよ。表面上はそりゃ議論になってるときもあるし、煮詰まってるときもあるし、どうすんねんってちょっとピリってなることとか色々あるじゃないですか。で前まではそいういうときに僕が「こうちゃうか」とか方針を示したりしてたんですけど、今はなんかね、そういう感覚にならないんですよね。その揺れも含めて染みてくるって感じ。話し合っている人同士の様子をみていても話の内容というよりは、なんかあの人めっちゃ今命をうわーっと輝かせているなとか、ある人は誰かの異論を感情的に議論するのではなくてどうやって受け止めようかとしていたり、違う人は案外その状況をすごい大らかに愛おしそうに見てたり。そっちの方にすごいフォーカスが行く。だから不思議とね、どれも愛おしく感じちゃうんですよね。だからその感覚でやりとりを見てるから、最後に園長の子がお情けで「言うことあれば」って振ってくれてもね、みんなはたぶん会議の内容とかについてなんか言うんやと思ってるんですけど、僕は「みんながこうやってこの場で存在して、こうやって会話したり、いきいきとしてる感じがただただ愛おしい」ってこの前も言ったんです。そしたらみんなぽっかーんとしてて。この人何を言ってるんやろみたいな感じで。
でもなんかね、そういう感覚で埋め尽くされてるから、急にスイッチ変えてロジカルなアドバイスとか、そういう風にはもうなれないっていうか、死生観も変わったような気がするので、ただただ愛おしく感じるんですよね。だからアドバイスとか求められてももう「どっちに行ったっていい。そうやってこのテーマと向き合ってくれてるのがミラクルだし、結果どっちになって一時的にその判断や行動が失敗やったなってなろうが、そんなこと僕絶対に何も言わへん。それも全部含めて奇跡的で、あなたが今ここに生きてることが愛おしい。それ以上何も言うことない」みたいな。みんなからしたら「いや、そういうことじゃなくて」みたいな。だから、ちょいちょい会話が噛み合わないんよね、うん。
でも何周も戻ってあれなんですけど、どっかで僕の中では、この感覚が受動的なきっかけで起こってる気がしてて。だからこれを能動的にキープしていける術がないかなって。その意味でもここ最近、詩に取り組んでて。
人間て生活してると、どうしても慣れが出てきたり忙しくして、一月(ひとつき)、二月(ふたつき)、三ヶ月経つと、なんかその感覚が薄れていく、慣れてくっていうか。でその研ぎ澄まされた感覚がなくなっていくのが嫌なんですよね。
でもある種のその快感を知っちゃってる、のでそのままそっちに振り切っちゃうんじゃないかっていう危うさは僕自身も認識してます。その、自殺とかしないと思うけど、たとえば先ほどお伝えしたような、体全体に幸せな気持ちが染み渡ってくるときとか、そういう状態になってるときって、そのままふわーってそっちの方に行ききっちゃうんじゃないかという危険性はあるので、そのためにも、目の前の世界に自分の予測を超えたどんな変化が起きても、それを味わいながらも自分を見失わないような術というか、自分のあり方を見出したいんです。そういうのもないまま、何かすごいショッキングなこととかに直面したら、たぶんものすごい鬱になるか、精神が破綻する可能性があるなとも思うので。怖さはないんですけど、自分の中での危うさというのか。だから世界とうまく距離感を保ちながら、生きるのを遊ぶ、そういう感じになりたいですね。